2014/03/10

UCバークレーで引き続き中国語を勉強していること

If you talk to a man in a language he understands, that goes to his head.
If you talk to him in his own language, that goes to his heart.
(ネルソン・マンデラ)


 前学期に続いて、中国語の授業を履修している。週5.5時間。相変わらずの千本ノックだが、たのしい毎日だ。特に修士論文で根を詰めることの多い今学期では、この授業がうまい具合に脳の筋肉をほぐす役割を担っている。
 水風呂と熱湯風呂というか、柿の種とピーナッツというか、サイモンとガーファンクルというか、まあ何にせよバランスというのは大事である。




 前回の記事から5ヶ月が経ち、ネタもいろいろとたまってきた。
 ブログが終わる前に、ここでひとつ放出することにしたい。

伯克利:Berkeley / 和:and / 我:me


<簡体字と繁体字>
 ご存知の方も多いだろうが、中国語には、簡体字(Simplified Chinese)繁体字(Traditional Chinese)の2種類の表記がある。私の授業ではSimplifiedの文字を使うので、さぞ覚えやすいだろうと思っていたら、これが意外にも逆だった。日本語に近いのは、Traditionalの方なのだ。


 とはいえ、街中でTraditionalを見かけないわけではない。香港系や台湾系の店では、むしろTraditionalしか使われていないことが多い。結局は、両方覚えないといけないのだ。
 これは何とも非合理な話で、あるとき私は中国人の友達に「SimplifiedとTraditionalの2種類があるなんておかしい。中国共産党はいまからでもひとつに統一すべきだ」と文句を言った。すると彼曰く、「何を言ってるんだ。日本語なんか漢字とひらがなとカタカナの3種類もあるじゃないか。そっちの方がよっぽどおかしい。自民党はいまからでもひとつに統一すべきだ」。
 この論争、どうやら中国側に分がありそうだ。


 ではSimplifiedの全部がとっつきにくいかというと、またそうとも限らない。「ごんべん」や「もんがまえ」などは、Simplifiedの方が画数も少なく、視覚的にも馴染みやすい。
 そんなわけで私は最近、手書きで日本語の文章を書くとき(たとえばこのブログの原稿がそうだ)、Simplifiedを使うようになってきた。そっちの方が格段に早いのだ。
 うーん、だんだん中国人化してきたみたいだ。

私は「てん」を「右上 → 左下」の向きに書く癖があり、書き取りの宿題でしばしば減点される。私の名字には「てん」が2つあるのだが、先日のテストでこれを赤ペンで直された。名前欄でバツを食らったのは、小学生ぶりだ。

真夜中に台所でひとり書き綴る、死、死、死、死、死、死、死、死・・・。言霊的には、たぶんかなりよくない。


<若いと書いてアホと読む>
 前回の記事でも触れたことだが、クラスメートが、とても若い。干支の文化について学んだ先週の授業では、先生が「皆さんほとんど狗年(戌年)ですね!」とコメントされた。しかし考えてみれば、みんなは1994年生まれの戌年で、1982年生まれの私とはひとまわり違うのだ。
 といっても、級友たちは年長者の私を特に敬うでもなく、距離を置くでもなく、あくまでフラットに肩を叩いて接してくる。そこがアメリカの(バークレーの)いいところだ。


 年齢を別にしても、彼らは日本の大学生よりもずっと幼い。たとえば、先生がAさんに質問しているのに、その答えをBさんもCさんもDさんもEさんも次々に重ねて発言し、ついには誰が何を言っているのかすらわからなくなる、なんてことはしばしばだ。あるいは、生徒の質疑応答の直後に、別の生徒がまったく同じ質問をすることもある(人の話を聞いてないのだ)。
 これにはさすがに温厚なTsai先生(蔡老師)も怒気を発し、「同じ質問されたら、また同じ説明しなくちゃいけないでショ!時間もったいない!先生が話しているときは、みんな静かにしてね!」とのお叱りを受けることになった。でもこれって高校生レベル、いや中学生レベルのお説教だよな。

 UCバークレーというのは世間的には一応トップ校ということになっているのだが(先日発表されたAcademic Ranking of World Universities 2013では第3位にランクされていた)、彼らを見ていても全然そうは思えない。まあ、そういう「エリートくさくないところ」こそがUCバークレーの美点である、と個人的には言いたいのだけれど。

出所: ARWU 2013, THE World University Rankings 2013-2014

 ともあれ、こういうにぎやかな環境で席を並べて勉強するという体験は、あるいはこれで人生最後かもしれない。そう思うと、急にみんなが愛おしくなってくるから不思議なものだ。




<むずかしい「了」、おもしろい「的」>
 外国語を学ぶ上での大きな壁のひとつが、ある種の文法的ニュアンスだ。英語でいえば、「a」と「the」の使い分け。文脈に応じてどちらを使うべきか、ネイティブスピーカーには直感的にわかるのだが、学習者がその感覚を掴むのは難しい。
 私にとって、中国語のそれは「了」である。詳しい説明は省くが、作文の宿題でも、この「了」の有無でよく間違える。もっと勉強すれば理解が進むのかもしれないけれど、太难了(難しいなあ)!

(追記: ネットで調べると、「了」に苦しんでいるのは私だけではないみたいで、少し安心した。なかでも興味深かったのは、鴻富榮『中国語の"了"の用法探求』。題名のとおり、「了」の用法だけをひたすら追求した16ページの論文だ)
 

 「了」のほかに印象深いのは、「的」である。「○○的××」で、「○○の××」という意味になる。「了」よりはずっとわかりやすい。
 「的」のおもしろいところは、「○○的」の「○○」が名詞でも動詞でも形容詞でもオッケーであることだ。たとえば、「我妈妈做的豆腐」は、「私のお母さんがつくった豆腐」という意味だし、「我妹妹爱的那个很帅的男人」は、「私の妹が想いを寄せるあのイケメン男性」だ。いわば関係代名詞と助詞が一緒くたになったようなもので、これはなかなか便利である。

 この「的」を学んだときに私が気づいたのは、「中国人によって書かれた日本語の商品や看板には、なぜ「の」がやたら多いのか?」という疑問に対する答えだ。あれはつまり、「的=の」というシンプルな置き換えをやっているためではないか。
 カリフォルニア州の運転免許センター(DMV)の筆記試験に「防御的運転」という珍妙な日本語訳が出てくる、というのは一部では有名な話だけど、あれは中国語のセンスでいけば、全然おかしくない話だったのだ。
 



体に負担はない。 


<移民と外国語>
 UCバークレーの外国語教育は、大変に充実している。学部生向けに開設された授業を挙げるだけでも、フランス語、アカディア語、ドイツ語、イディッシュ語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、アイルランド語、オランダ語、ギリシャ語、ラテン語、ロシア語、ポーランド語、チェコ語、ボスニア・セルビア・クロアチア語、ハンガリー語、ルーマニア語、アラビア語、ペルシャ語、ヘブライ語、トルコ語、タガログ語、ベンガル語、パンジャブ語、タミル語、ヒンディー語、ウルドゥー語、テルグ語、サンスクリット語、中国語、韓国語、タイ語、ベトナム語、インドネシア語、クメール語、エジプト語、ヒッタイト語、スワヒリ語、ウォロフ語、チェワ語、といった按配だ。

 もちろん日本語の授業もある。語学棟の廊下を歩いていると、ペアになった白人と黒人が「ありがトございました」「どういたシまして」などとやり取りしている姿をたまに見かける。たぶんダイアローグ暗唱の特訓をしているのだろう。心温まる風景だ。
 しかし正味な話、バークレーの語学教育の質はかなり高い。先日出会った日本語学習2年目の学生(たぶん中国人)は、驚くほど流暢に日本語を操っていた。下手すると私の英語よりうまいんじゃないか。
 彼に授業のプリントを見せてもらったところ、次のテストの範囲は、星新一の名作『おーい、でてこーい』。暗記を要する単語は、「原子力発電」「あとしまつ」「村はずれ」「利権屋」「つきっきり」などであった。なかなかハイレベルな語彙である。

(2014年3月18日追記: 先週知り合った中国人のゼンさんは、「日本のアニメがロボット産業に与えた影響について」という作文の宿題をやっていた。すごい。ゼンさんは「ジョジョの奇妙な冒険」の熱心なファンで、しばしジョジョネタで盛り上がった。彼の好きなキャラは承太郎。ちなみに私はプッチ神父だ)


 英語を何年も勉強してきた日本人が一向に話せるようにならないのに、この違いは一体何なのか。UCバークレーでの教え方が優れている、というのはなるほどひとつの要素だが、天と地ほどの差があるわけでもないだろう。日本の英語教育だって捨てたものではない。

 それでは、なぜか。
 私の意見は、「人種の多様性の違い」だ。すなわち、ある言語を学んでいるとき、それを母言語とする兄チャンや姉チャンが(爺チャンでも婆チャンでもいいけど)身近にいるか否か、という違いである。
 言語というのはコミュニケーションをするためのツールなので、その相手が近くにいなければ必要には迫られないし、必要に迫られない物事についてモチベーションを維持するのは一般に難しい。言ってみれば、海も川もプールも見たことのない人に泳ぎの練習をさせるようなものである。

 であれば、我が国はこれからどうするべきか。この議論を突き詰めていったときに、おそらく行き当たるのが、「日本はもっと移民を受け入れるべきか」という大きな政策イシューだ。
 そしてそれは、私がこの2年間、折に触れて考えてきたことでもある。

 日本はもっと移民を受け入れるべきだろうか?

・ 民族的同質性の高い日本では、異なる人種を受け入れるのは心理的抵抗が強すぎるのではないか?

・ でも、「幕末 ⇒ 明治」や「敗戦 ⇒ 復興」に見られるように、日本人は良くも悪くも環境変化への順応性がきわめて高い民族だから、移民についても(はじめは抵抗あれど)意外にするっと受け入れられるのではないか?

・ 日本文化のオリジナリティは、(英語の不得意さが幸いして)日本語という名の防波堤によって守られているという説もあるが、そうした価値が移民の増加によって失われてしまうのではないか?

・ いや、日本文化は歴史的に異文化を取り入れながら独自な進化を遂げてきたのだから、外国人比率が高まったくらいで壊れるほどやわなものではない、という考え方もあるのではないか?

・ 英語話者のベビーシッターや家政婦が増えれば、子どもの英語教育の選択肢が広がるし、女性の社会進出度も向上するし、一石二鳥ではないか?

・ しかしそれは、ベビーシッターや家政婦を雇える財政的余裕のある家庭に限られた話であって、さらにこれまで(ベビーシッターや家政婦として)働いていた日本人労働者の雇用を奪う結果にもなるから、富裕層と貧困層の格差が拡大してしまうのではないか?

 答えは未だ出ない。
 出ないからこそ、考え続けているのだけれど。


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