2012/08/13

ブログの題名を変更したこと

 ブログの題名を、「アメリカの大学院で公共政策を学ぶまで」から「バークレーと私」に変更した。お気づきの方もいらっしゃるかもしれないが、これは「アメリカと私」からのいただきだ。
 「アメリカと私」は、文芸批評家の江藤淳が1962年にプリンストン大学に留学した日々を綴ったエッセイである。往時の時事的要素を多分に扱いながら、自意識の葛藤から日米関係のあり方に至るまで、その深い洞察は半世紀を経たいまも古びない。

 奇遇にも、江藤さんと私は「29歳から2年間、妻あり子なしの身分でアメリカに留学する」という共通項を持っている。もちろん、50年前といまとでは留学という言葉の重みがずいぶん違うだろうし、UCバークレーとプリンストンの雰囲気にも相当な開きがあるだろう(プリンストンに行ったことはないが、村上春樹の「やがて哀しき外国語」を読んだ経験から、何となく想像はつく)。言うまでもなく、頭のキレという点でも埋めがたい彼我の差がある。
 しかし、私は私なりに、バークレーという、このちょっと(かなり?)変わったアメリカの地方都市に住み、慣れない英語に四苦八苦しながら、考えたことを少しずつでも発信していきたいと思う。改めて、どうぞよろしくお願いします。

バークレーに着いて1週間が経ったこと

 バークレーに到着して1週間。いま私は、サン・パブロ通り沿いの「カフェ・レイラ」にて、2ドル75セントのマキアートを飲みながら、ロバート・ライシュ教授(元労働長官、現UCバークレー公共政策大学院教授)の授業「Public Leadership & Management」の課題図書となっているAdam Hochschild著「Bury the Chains」を読んでいるところだ。

 と、こう書くといかにもバークレー生活に順応しているようだが、実際にはクラスメートの英語がほとんど聞き取れずに冷や汗をかいたり、海外送金がうまくゆかず期日内に学費が払えそうもない状況に頭がくらくらしたりと、洗練とはほど遠い日々を送っている。それどころか、大学寮の手続きにも不備があったため、約2週間は安宿から安宿へと移動するよるべない生活を強いられているのが実情だ。

 しかし、毎日15キロくらいの距離を西に東に歩き回るという健康だか不健康だかよくわからない日々を過ごしていると、わずか1週間とはいえ「路上観察者」の視点からバークレーのいろいろな面が見えてくる。そこで今回は、多分に誤解を含んだ私なりの第一印象として、気づいたことをいくつか書いてみたい。




<外食>
 バークレーには実にたくさんのレストランやカフェがあって、少なからぬ店がOrganic、Vegirtarian、あるいはVegan(動物性の食材を一切使わない完全菜食主義)といった言葉をメニューに添えている。なかには「これって本当にベジタリアンか?」と首を傾げたくなるような料理もあるけれど、まあそこは拡大解釈をするとして、総じて自然食が多いのは確かである。これはたぶん、バークレーがヒッピー文化発祥の地であることとも関係があるのだろう(そういえば「孤独のグルメ」という漫画でもそんな話があった)。道端の落書きには、「Vegan or Die」などという、冗談だか本気だかよくわからないのもある。Vegan or Die?

 物価は、現下の円高(2012年8月現在、1ドル=約80円)を差し引いて考えても、それほど高くはない。朝食やランチなら、お店を選べば10ドル前後で満腹になる。コーヒーも一杯2~5ドル程度だ。紅茶も、烏龍茶も、ジャスミン茶も、チャイも、抹茶ラテも売っている。
 いわゆるアメリカ料理(油まみれのポテト、大皿を占拠する肉塊、日本では見たこともない色の炭酸飲料!)のお店もあるけれど、エスニック料理の店もそれ以上に多い。イタリア料理、中華料理、日本料理、韓国料理、タイ料理、ベトナム料理、インド&パキスタン料理、ヒマラヤ料理、メキシコ料理と、数え上げたらきりがない。さすがは人種のちゃんぽん(勝手に命名)・バークレーである。




<食材>
 バークレーには大型のスーパーがいくつもある。洗剤のような容器に詰まった1ガロンの牛乳や青緑色のケーキ(!)を目にしてため息が出ることもあるけれど、自然食嗜好のスーパーも少なからず存在する。

 たとえば、「TRADER JOE'S」というスーパーには、全体にオーガニックな食材が揃っていて、醤油や豆腐や玄米も売られている。これは日本人にはありがたい。そのおかげで、私は到着直後に泊まった「DownTown Berkeley YMCA」の共用キッチンにて、豆腐とブロッコリーの醤油味パスタなる即席料理をこしらえることができた。(ちなみにそのとき一緒にキッチンにいた中国人(高校生くらい)が、おそらく人生初の「鮭のフライ」に挑戦していて、私たち夫婦に調理法を尋ねながら最後には完成し、ひと切れ分けてくれた。それはとても美味しく、彼女の逞しさには見習うべきものがあった。出てきたのは「鮭のソテー」だったけど。)

 バークレーはまた、市井の人々が活発に行動する街でもある。有名な「ファーマーズ・マーケット」はもとより、各人が畑で取れた野菜などを物々交換するイベント「Crop Swap」は、オーガニックの極北というか、貨幣経済からの脱却というか、とても自由でバークレーらしい活動である。大学寮に住む希望者には畑が割り当てられるという噂も聞くので、余裕があれば私も参加してみたいものである。




<自転車>
 バークレーは自転車好きには最高の環境だ。Cannondale、SCOTT、GIANTなど、日本でも人気のブランドがバークレーでも元気に走っている。日本が誇るFUJIもあって、私は大いに愛国心をくすぐられた。

 大学の周辺に自転車屋さんはいくつもあるし、東京では未だ論争の種となっている自転車優先道路も、ここではしっかりと整備されている。ベイエリアの縦横を走る地下鉄(BART)には、輪行袋なしで自転車を持ち込むことだってできる(そのせいか、小径車や折り畳み自転車の類はあまり見かけなかった)。

 面白いことに、日本ではマイナーなリカンベント(仰向けに近い姿勢で漕ぐ自転車)やタンデム自転車(2人乗りの自転車)もしばしば見かける。サドルの高さが2階建てバスくらいある異様な自転車がUCバークレーのロースクール前を悠々と走るのを目撃したこともある。すごく自由で、すごく楽しそうだ。

 私はまだ住居が定まらないため、自転車の購入には至っていないが、遠からず何がしか自転車を購入しようと目論んでいる(日本からの船便にわざわざ自転車用の鍵とヘルメットを入れたくらいだ)。しかし悩ましいのは、自転車大国であるバークレーが、同時に自転車「泥棒」大国でもあることだ。ぴかぴかのロードバイクを買うべきか、それともリサイクルショップで廉価の自転車を買うべきか。贅沢な悩みではあるけれど。




<欠点>
 どの街にも優れた点と、そうでない点がある。バークレーも例外ではない。まずひとつに、「バスが時間通りに来ない」というのがある。公共交通機関であるバスが、10分遅れ、20分遅れなどというのはざらにある(おかげで私は授業にいきなり遅刻した)。さらに言うと、運賃を支払う際にお釣りが出ないし、運転手は次の停車駅を告げない。停まるべきところで停まらず、停まる必要のないところで停まる。しかし乗客たちは、特にそのことを不満に思う様子もない。諦念の境地に達しているのかもしれない。なるほど、ここは自由の国なのだ。

 大通りの空気も、あまりよくない。数年前に訪れた北京ほどではないが、UCバークレーから湾岸にかけて伸びる「University Ave.」を10分くらい歩いただけで、目鼻にぐんぐん悪い刺激が集まってくる。環境意識の高いバークレー市がこうした状況を放置するわけはない(と思いたい)けど、良くも悪くも車社会のアメリカにおいて、行政の取組がめざましい成果を生むのかどうかはわからない。




 あまりネガティブなことばかり書きたくないが、もうひとつだけ欠点を挙げるなら、それは治安の不均一性ともいうべきものだ。バークレーは全体として治安の良いところだと言われるし、私もそう思う。しかし、どこから撮っても絵葉書になりそうな瀟洒な住宅街から数ブロック歩くと途端に街路の陰影が濃くなる、ということはしばしばある。そこには公的な地図に記されることのない、目に見えない「仕切り」のようなものがあって、それはたぶん地元住民であれば誰でも知っていることなのだろう。

 そうした「陰影の濃い」地域には、街ゆく人々から金銭を貰いうけるための容器(それは帽子だったり、ギターケースだったり、スターバックスのカップだったりする)を携えて道端に座る人が見られる。彼らの中には、自由意思に基づいてそうした道を選んだような人もいるが、一見してそうではない人もいる。そうではない人は、概ね共通して、眼底が暗く澱み、赤黒く日焼けし、垢と屈託に塗れた無表情の表情をしている。そのうちの一人は、今日、私に「Hello Sir..」と話かけ近づいてきたが、私は片手を上げてそのまま通り過ぎた。1ドル札でも渡しておけばよかったのかもしれないが、私はそうしなかった。

 いまこの原稿を書きながら思うのは、公共政策大学院に通って、神妙な顔つきで経済学や政治学を勉強して、それでこの宿なき人の生活がどう変わるのだろうか、ということである。そんなことでいちいち立ち止まっている暇があったらもっと英語の勉強をしろよな、という話なんだけど、しかし世の中を良くするためにバークレーに来ているという大義(のようなもの)は、なるべく見失わずにいようと思う。

 最後に妙な脱線をしてしまった。今回はここまで。



(2013年3月17日追記: これらの印象が大きく変わったわけではないが、下記2点について補足したい。
①渋滞した大通りの空気が悪いのは相変わらずだけど、それ以外の場所は全体に良い環境で、むしろ東京より空気がおいしいんじゃないかと思ったこと。
②ホームレスは確かに多いけど、ホームレス支援の取り組みもまた多いということ。今年1月に「Larkin Street」というNPOにボランティアで参加した際、その豊かな人的/物的リソースに驚かされた)

(2014年4月2日追記: バークレーでの生活に興味のある読者は、「UC Villageの住人に10の質問をしたこと」も併せてご参照ありたい)

2012/08/02

人生は手持ちのカードで戦っていくしかないのだ、と気づいたこと(米国大学院の出願プロセスについて)

TOEFL iBTの勉強法、というか心構えのようなものについては、このブログで以前に記したことがある。しかし、そのほかの重要な事項、例えばエッセイの書き方などについては、これまで触れる機会がなかった。
 そこで今回は、主としてこれから大学院留学を目指す方を読者に想定し(私の愚行を笑いたいだけという読者も一応歓迎する)、私が米国大学院の出願プロセスを通じて得られた知見を伝えることにしたい。

1.総論 (どういう人が強いのか)
 米国大学院の出願プロセスは(特に公共政策学やMBAのようなプロフェッショナル・スクールにおいては)、いわゆる「お受験」ではなく、むしろ「就職活動」に近い面がある。そこであなたを待ちうけるものは、筆記試験の点数順といった画一的・定量的な評価ではなく、履歴書やエッセイやインタビューを通じた総合的・定性的な評価だ。乱暴に表現してしまうと、「あなたを入学させるメリット」を大学当局が認めればあなたは合格するし、そうでなければあなたは合格しない。そういう世界なのである。

 例えば、あなたがとある公共政策系大学院の入学審査課に所属しているとして、こんなバックグラウンドを持つ志望者が来たとしたらどうだろう。

 スラム街に生まれ、6歳の頃からゴミ拾いを生業としていたが、商才あってゴミ拾いビジネスのフランチャイズ化に成功、弱冠12歳にして年収25万ドルを稼ぐに至る。富裕層との人脈を広げていくうち、読み書きすらできない自らの無学を痛感、一念発起して13歳から猛勉強をはじめ、18歳でハーバード大学に合格。19歳で在学中にペットボトルを再資源化するNPO法人を立ち上げ、22歳で環境保全活動の一環としてカリブ海の島を2つ購入した。

 なかなか強力な個性と才気に富んだ人物である。すでに環境分野で実務家としてのキャリアを相当に積んでおられるし、クラスのディスカッションでも大いに貢献してくれそうだ。卒業後にはひとかどの人物となって、大学の名声をうんと高めてくれるかもしれない(うんと寄付をしてくれるかもしれない)。
 と、あまり決めつけるようなことはよくないけれど、私がもし担当者だったら、彼にはぜひとも入学許可を出したいところだ。

 それでは、この人の場合はどうだろう。

 伝統的な猿回し師の家に生まれ、8歳の頃からプロの猿回し師として活動を開始、13歳には第89回世界猿回し選手権・ジュニアの部において新人賞&協会特別賞のダブル受賞の栄光に輝くも、当時のパートナーであったシコルスキー君(雄猿・4歳)を肺炎で死なせてしまったことへの責任を取り、周囲から惜しまれつつも引退を決意、世界放浪の旅に出る。16歳の時分、113カ国目に訪れたコンゴ民主共和国において、同国に生息するボノボ(チンパンジーの仲間)が自分に異常なほど好意を寄せることに気づいたことから、現地住民の了解を得てボノボたちとの共同生活を開始。20歳にして、小学校中退の学歴ながらボノボの言語学習プロセスに関する仮説をフランスの学術誌に投稿、世界的センセーションを巻き起こす。

 ぐっとくる人生だ。新橋あたりの飲み屋で芋焼酎なんかを傾けながら、この人の来し方行く末について、じっくり話を聞いてみたい気がする。
 しかしながら、この人、考えてみると公共政策にあまり関係がない。動物学ならいざしらず、「なぜ公共政策学を志すのか」という観点において、この人のバックグラウンドから強いエッセイを作るには、然るべき推敲が必要とされるだろう。
 「就職活動」に近い面がある、というのは、つまりはそういうことである。


2.各論 (どうすれば強く見せられるのか)
 出願に必要な書類は大学によって異なるが、概ね共通するものは、「大学の成績証明書」「TOEFLのスコア」「GREのスコア」「履歴書」「エッセイ」「推薦状」である。
ここでは、私の個人的な体験を交えつつ、それぞれの項目について概説したい。

<大学の成績証明書>
 日本では、学歴といえば「どの大学を卒業したか」の意味にほぼ等しい。他方、アメリカでは、むしろ「その大学でどんな成績を収めたか」が重要視される。ほとんどの場合、受験者はGPA(Grade Point Averageの略。Aを4点、Bを3点・・・と換算して、4点満点で平均値を取る)を自己申告することになっていて、併せて提出する成績証明書はその証拠という位置づけにある。
 ハーバード大学やUCバークレーのようなトップスクールにおいては、一流大学出身でGPAが4.0(つまりオールA)という受験者も珍しくない。彼らにとって、それはゴールではなく、スタートなのである。
 それでは、私の場合はどうだろう。ごく控えめに表現して「決して一流とはいえない私立大学」に所属し、在学中には「学年で取得単位の最も少ない学生」として学部長に注意され、案の定単位不足で留年し、必修科目はC(可)やD(不可)ばかりという、まさにカフカ(可・不可)の小説のように出口のない状況であった。
 正直なところ、大学から英文の成績書を取り寄せるという事務的な作業すら、その心理的抵抗には大なるものがあった。「大学の成績」という言葉を思い浮かべただけで、私の下腹部には鈍い痛みが走った。私はゼッケンを持たないマラソンランナーのようなもので、スタートラインに並ぶ資格すらないんじゃないか、との疑念を振り払うのに苦労した。できることなら、自分のダメぶりが白日の下に晒されるタイミングを少しでも先送りにしていたかった。
 しかし、ある時点から思い直したのは、私は私の過去(過ち、と読み替えてもよい)からはどこまでいっても逃げられない、ということである。私のGPAがなぜこんなに低いかといえば、ひとえに私がアホだったからである。それは私の人生における回避不能な事実であって、いま何をしたからといって私の過去(恥、と読み替えてもよい)が塗り替えられるわけもない。そうであれば、もはや改善の余地なきGPAについてあれこれ呻吟するよりも、これから質を高められる(かもしれない)エッセイに集中すべきではないか。その方がよほど生産的で、救いのある道ではないか。そう気づいたのである。
 詰まるところ人生とは、手持ちのカードで戦っていくしかないゲームなのだ。

<TOEFLとGREのスコア>
 当たり前のことだが、TOEFLやGREのスコアは高ければ高いほど良い。巷には、(日本人が英語の苦手な民族であることは米国の大学関係者に広く知られているため、)TOEFL iBTは基準点に満たなくても何とかなるとか、留学生はGREのスコアは関係ないとかいう噂が流布していて、そうした仮説を裏付ける事例を私は知らないわけではない。しかしながら、これは着実にハイスコアを叩き出した人に有利に進むゲームである。藁を掴んで溺死を免れた例があったとしても、最初から溺れない方がずっといい。
 私は、約200万円と約1,000時間を投資して、合格者の得点分布の最低点にほぼ等しいスコアを獲得した。こんなに費用がかかっているのは複数の予備校に通ったから(焦りの表れ)だが、後から振り返ると無駄打ちが多かったように思う。公式問題集に加えてDeltaなどの定評ある参考書を繰り返し解き、予備校は「Web TOEFL」のオンライン講座のみ受講し、お金に頼らない健全なモチベーション維持ができていたら、あるいは10分の1以下の値段で必要スコアに達していたかもしれない。まあ、それはどこまでいっても仮定法過去完了の話ではあるけれど。

<履歴書>
 日本で履歴書というと、コンビニエンスストアや文具店などで売られているアレを思い浮かべる方も少なくないだろう。しかし、ここでいう履歴書の概念は少し違う。もっとフリーな形式で、「あなたはこれまでに何をしてきましたか」の問いに対する答えを綴る、1~2ページ程度の箇条書きエッセイ、と捉えるとわかりやすいかもしれない。つまりあなたは、自身が売り込みたい要素(とそうでない要素)について、ある程度の取捨選択が可能である。
 私の場合、「学歴」や「成績」はアピール・ポイントにはなりえなかった。もちろん大学名や専攻、入学/卒業年は事実として記載したが、それ以上の内容には、慎重なガゼルがライオンの群れに近づかないように、決して踏み込まなかった。大学院によっては、公共政策に関連する授業(経済学、法律学、数学、統計学、プログラミングなど)の履修の有無及びその成績を開示する必要があったが、これは私にはシビアな要求だった。(しかし、仮にあなたが、東京大学をGPA4.0で卒業し、執筆した論文で学会賞を受賞し、ゼミの教授と共著で書籍を出版し、在学中に国際機関にインターンをして活躍したのであれば、それらの事実を、静かな誇りとともに履歴書に記載すべきである。それはあなたの努力の成果であって、誰にも奪われることはないのだから。)
 「学歴」「成績」方面の記述を最小限に抑えた代わりに、私は「職歴」で勝負した。運が良かったと言うべきだろう、私はこれまで、「世界初」の修飾語を冠するいくつかのプロジェクトに携わってきた。スマートでなくとも、泥臭くとも、それらは確かに「私の仕事」であって、私が大学当局にアピールできる(ほとんど唯一の)事柄であった。私はそれらのプロジェクトについて、なるたけ固有名詞を用い、任期中に達成した成果に焦点を当てて記述した。
 その他の項目については、「その情報を大学当局が知ることでプラスになるか否か」を自問して、その答えがYESであるなら追記すればよいと思う。私は、「受賞歴」「出版歴」(主に仕事絡み)のほか、「ボランティア活動」「趣味」といった項目も追記した。例えば、
 ・大学時代に落語研究会の会長を務め、神社や公民館などを会場として公演活動を行った
 ・「オデュッセイア」「源氏物語」などの古典文学を読む「カラマーゾフの兄弟研究会」を主催し、7年前から現在に至るまで活動を続けた
 といった内容は、公共政策との関連性がほとんど認められないことは自覚しつつも、「この日本人は一風変わつた奴だな。頭は少しく弱さうだけれど、面白さうだから入れてやり給へ。」という酔狂な審査官がいる可能性に賭けた。その判断が吉と出たか凶と出たかはよくわからないけれど。

<エッセイ>
 エッセイのテーマは、「なぜ公共政策学か」「なぜこの大学か」を問うもの(Statement of Purposeと呼ばれる)が一般的だが、これに加えて、「直近の3年間で世界に最も影響を与えた出来事は何か。あなたの考えを述べよ」「100万ドルの資本金で新組織を立ち上げるとしたら、あなたは何をするか」などのユニークなお題が与えられることもある。あるいは、「ポリシー・メモ」という形式で、政策分析などの小論文が課せられることもある。こうしたテーマは大学によって、また入学年度によって異なるので、志望校のホームページをこまめにチェックしておくことが肝要である。
 世の中とは便利なもので、こうしたエッセイ作成を支援するための予備校などというのもあるのだが、私は利用しなかった。予備校で教わるであろう「型」のようなものに下手に染まってしまうと、逆にオリジナリティを減じてしまうと考えたからだ。まあ単純にTOEFLの準備にお金を使いすぎて、可処分所得が実質的に底をついたという事情もあった(こちらの要因の方が大きいかもしれない)。
 そのぶん、推敲にはかなり時間をかけた。2011年の8月から翌年の1月まで、合計200時間ほどだろうか。私の場合、まずエッセイのネタ出しノートを用意して、どこへ行くにも持ち歩くことからはじめた。全体の構成案や、使えそうなエピソードなど、思いついたら何でもせこせこと書き込んでいく。最初は英語で書いていたが、すぐに非効率的であることに気づき、日本語に切り替えた。
 そうやって地道なネタ出し作業を1カ月くらい続けていると、「第一稿」とでも言うべきものができてくる。断片的なアイデアが有機的なつながりを見せ、エッセイの文脈が輪郭を帯びてくる。そうしたら今度は、原稿をパソコンに打ち込み、印刷し、ひと晩ほど寝かせ、主観からできるだけ離れた状態で読んでみる。するとまた手を加えるべき箇所が見つかってくるもので、原稿をまた修正し、また印刷し、また寝かせて、また修正する。そんな地道な作業をひたすら繰り返した。
 「第十稿」くらいにまで辿り着いたあたりで、私は自分の奥さん、上司、留学中の先輩、英会話の先生といった向きに原稿を渡し、忌憚なき意見を求めた。参考になる意見があれば、もちろん原稿に反映する。そうやって時間をかけてぎりぎりと詰めていくと、自分でもそれなりに納得のいくエッセイができてくるものだ。これが私のやり方だった。
 このようなプロセスを通じて、私がひとつ心がけた、というか目指したのは、エッセイ(特にStatement of Purpose)のすべてのパラグラフが、世界中で私にしか書けない内容であることだ。
 例えば、私は大学時代に環境に関する研究をしていたことがあるので、これが公共政策(環境政策)に興味を持つきっかけになった、と書けるかもしれない。でも、「大学で環境をやっていたので環境政策に興味を持った」人というのは、世界に何万人、あるいは何十万人といるに違いない。これではオリジナリティは希薄だし、競争力のあるエッセイにはなりえない。
 これに対し、例えば「研究の一環で南極に短期滞在した際に、目の前で氷山が崩れ落ち、巨氷に押し潰されたペンギンの子どもが穏やかな死に顔で南極海に浮かんでいるのを目撃して、私は生まれて初めて地球温暖化の深刻さを腹の底から認識した。そして、自分の残りの人生を、研究者としてではなく、将来の温暖化を食い止めうる公共セクターの一員として捧げるべきなのだと確信した」という記述を交えたらどうだろう。まあこれは架空のエピソードであって、ペンギンの子どもは実際には死んでいないので安心して欲しいのだけど、これと同じ経験をした人は恐らくほとんどいないだろう。審査官の目に留まる可能性も、そのぶん高まるに違いない。
 エッセイを練り上げるというのは、すなわち、これまでの人生であなたが手にしたカードのうち、最善のものを最善の組み合わせで使うにはどうすればよいか、その戦略をひたすら考え抜く過程にほかならない。少なくとも私の理解はそうである。

<推薦状>
 推薦状とは、その名のとおり、「彼/彼女はきわめて立派な人物であり、貴校への入学を推薦したい」というお墨つきをもらうためのレターである。公共政策系の大学院の場合、大学の関係者(ゼミの教授など)から1通、仕事の関係者(職場の上司など)から2通、あわせて3通というのが一般的で、私もそのパターンであった。
 私が執筆依頼をした職場の上司2名は、社交辞令抜きで本当にお世話になった方だった。ともに留学経験を有し、出願プロセスにおける「推薦状」の位置づけをよく理解され、私がこれまでに関わったプロジェクトについて(すなわち私が履歴書やエッセイで最もアピールしたい部分について)、色鮮やかなエピソードを添えていただいた。ありがたいことである。
 大学の先生とは長らく没交渉にしており、私のことなど忘れていたかと思いきや、日本酒を持参して無沙汰を詫びつつ伺うと、「研究室の中で異彩を放っていたのでよく覚えている」と解釈に困るコメントを頂戴し、ふたつ返事で引き受けてくださった。これまた、ありがたいことである。しかし、これは後で分かったことだが、あと数週間お願いをするのが遅れていたら、先生は太平洋航海の旅に出ていたところだった。いやはや、相談は早めにしておくものである。

 以上、長々と記述を連ねたが、こうすればうまくいくなどと主張するつもりはないし、私にはその資格もない(出願したすべての大学に合格しているわけではないのだから)。むしろ、ビジネススクールで扱うようなケースのひとつとして、あなたが参考になると思ったところを参考にしていただけたらそれでよい。私にとって最上なのは、総じて孤独な戦いである大学院出願プロセスに苦しんでいるあなたが、この文章から何がしかの「救い」を見出してくれることである。

 最後に、参考リンクと書籍をひとつずつ紹介したい。

http://gakuiryugaku.net/newsletter_content/2011-11.pdf
 米国大学院学生会のニューズレター「かけはし」第7号から、MITで航空宇宙工学を専攻されている小野雅裕さんの筆による「僕のStatement of Purpose論」(6-7ページ)。エッセイ執筆に関して、現在インターネットで無料で入手できる最良の日本語情報はこれだと思う。惜しむらくは、私がこの滋養溢れる記事を発見したのが全出願プロセス終了後であったということだ。

Donald Asher 「Graduate Admissions Essays: Write Your Way into the Graduate School of Your Choice」
 エッセイの書き方に関する書籍は日本語でも多く出版されており、私もいろいろと購入した。しかし、結果的にいちばん役に立ったのは本書であった。Amazonでも2,000円出せばおつりが来るくらいの値段で買えるので、英語の勉強も兼ねてご一読を薦めたい。